2013年11月4日月曜日

「1年1ミリにこだわるな」は「日本語」ではない と

 武田邦彦教授が、「『1年1ミリにこだわるな日本語ではない」と題するブログを公表しました。
 
 以前の読売新聞の社説を意識したものです。以下に紹介します。
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「1年1ミリにこだわるな」は「日本語」ではない
 武田邦彦 2013年11月2日
 
 最近、政治的な理由によって「1年1ミリにこだわるな」という表現が使われるようになっている。これはまともな日本語とは言えないから(詐欺に類するトリックの日本語)、注意が必要だ。理由は次にまとめられる。
 1)被曝の限度は「国民が我慢できる限度」で決まっている、
 2)日本では「原発の被曝で、1年8000人以下の犠牲者まで我慢しよう」と国民が覚悟している、
 3)それを「被曝量」という物理的数字に直すと「1年1ミリシーベルト」ということで、国民的合意は「1年8000人以下なら我慢しよう」ということであり、「ミリシーベルト」で合意しているのではない、
 4)この合意を知らない人もいるけれど、日本政府はこれまで「国民の合意手続(国会や大臣や政治家の了解、官庁の決定、公聴会、通達、法令など)」で決定してきた。
 
 このように政府が主導して決めてきたことだから、国民が「1年1ミリを緩めてくれ」といい、政府が「規則を見直す」というならわかるが、政府や議員が「1年1ミリにこだわる」というのは日本語としては適切な使い方ではない。自ら決めて自らが国民の合意を得てきたものを自分で「こだわるのはおかしい」ということ自体が「おかしい」からだ。
 
 一昔前は、このような場合の歯止めになったのは新聞記者だった。彼らには報道としてのプライドがあり、「正しい日本語、正しい単語」に固執したものだ。その頃だったらいくら自民党が「こだわる」といっても「それは使い方が違うのではないか」と記事を書いただろう。
 今や日本を代表する読売新聞がその社説で「1年1ミリにこだわるのか」と書いた。読売新聞は「1年8000人では少なすぎる。犠牲者はもっと多くてもよい」と書くだけの度胸がなかった。つまり「自分が正しいと思うことを書かない新聞」ということになる。
 「自分が正しい」と思うことを書けない新聞というのは存在価値があるのだろうか? 人は何をよりどころにして毎日を送っているのかというと、「自ら正しいと思うことを言い、それをするために生きている」のだ。
 
 ところで、交通事故死が1年5000人だから、原発も8000人までなら我慢する(致命的ガンと重篤な遺伝的障害)ということになっているが、交通事故の原因となる自動車は代わりのものがないので、5000人も多いけれどやむを得ないと思っている人が多いと思うが、原発はかわりに火力を使えばよいのだから、1年1ミリも被曝するならやめておいたほうがよいと私は思う。
 科学技術は人に不幸を強いるものではない。被曝と健康の関係がもっとはっきりしてくるか、あるいは1年0.1ミリぐらいになる時代まで原子力の科学者は待とうといってほしい。自分が開発した技術で大勢の人が犠牲になる可能性のあることを専門家がやってはいけないと思う。
 なお、現在、政府や新聞が言っているのは「外部被曝」だけだが、法令的には「外部被曝+内部被曝」だからさらに高くなる。