2016年2月15日月曜日

福島原発事故 避難者たちのいま、そして事故直後の命がけの避難

 大分合同新聞が、アパートの3階には階段で上れないために仮設住宅の4畳半の部屋に1人で暮らす渡辺悦子さん(85)と、楢葉町の避難指示が解除されたものの帰町者が6%に満たない状況では、老人たちだけが戻っても生活ができないからと、やはり仮設住宅にとどまっている堀井憲司さん(71)を取材しました。
 
 また東京新聞は、福島原発事故直後に年寄り同士が命がけで避難した状況を、浪江町出身の舶来重夫さん(72)に振り返ってもらいました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
帰りたい帰れない 福島県いわき市の仮設住宅 
大分合同新聞 2016年2月14日
 【東京支社】 雨風を受けた木造の壁は黒く変色し、過ぎた月日を感じさせる。
 福島県東南部、いわき市内郷(うちごう)白水(しらみず)にある「応急仮設住宅団地」。福島第1原発事故の7カ月後に完成し、計61戸の住居が10棟に分かれ長屋のように続く。原発から半径20キロ圏にある楢葉町の住民たちが避難指示を受けて身を寄せ、今も58世帯が入居している。
 
「着の身着のまま」
 4畳半の部屋に1人で暮らす渡辺悦子さん(85)。ここでの生活は間もなく4年半になる。楢葉では次男(62)家族と暮らしていた。事故が起きて「着の身着のまま」で避難し、新潟県や茨城県を転々とした。「移ったアパートは3階。とても階段で上がれねえ」。仮設住宅の抽選に当たり家族と離れることを決めた。
 「初めは一人きりで寂しかったけど、話し友達もできた」。週に1度来る移動販売で食材をまとめ買いし毎食、自分で作って食べる。
 他に必要な物は車で約1時間半の福島県須賀川市に住む三男(59)が週末に届けてくれる。毎月10万円の東京電力の賠償金を含めた金の管理も三男に任せている。朝晩に欠かさず体操をして健康だ。病院も近くにある。すっかり慣れた生活に不便は感じない。それでも「おら、家に帰りてえ。ここでは死にたくねえ」。
 19歳で嫁ぎ、8年前に亡くなった夫と2ヘクタールの稲作を営み、3人の息子を育てた。60年余りを過ごし、思い出の詰まった自宅で人生を終えたいと願う。
 
帰町わずか5・7%
 政府は昨年9月、楢葉町の避難指示を解除した。全町避難をした自治体では初めてだ。町は住宅や交通、福祉、教育といった生活環境を徐々に回復させて復興を進める方針。松本幸英町長は「2017年春には5割の町民が帰町できるようになれば」と話す。
 だが7364人の住民のうち、避難解除から4カ月たった今年1月の時点で帰った人は421人。わずか5・7%にとどまる
 避難した若い世代の中にはいわき市などに土地や自宅を購入し、生活が定着した人たちも多い。同じ仮設住宅に住む堀井憲司さん(71)は、そんな人たちが「楢葉に帰るだろうか。小さな子どもがいれば、いくら安全と言われても放射線の不安はやはり根強いだろうし、帰町が進むのは難しいのでは」と話す。
 楢葉町は一部でコンビニエンスストアや商店の営業、医療機関の診療が始まったものの、渡辺さんは「年寄りばかりで帰ったって、しょうがねえ。買い物は遠くて歩けねえし、やっていけねえ」とうなだれる。
 帰りたいけど、帰れない―。複雑な思いを抱えながら過ごしている。 
 
 
寒さに震え「老老避難」 私の見た福島事故
 東京新聞 2016年2月14日
 五年前の東京電力福島第一原発事故は、福島の人々の暮らしを突然奪った。すぐに戻れると思い、ほとんど着の身着のままで逃げたが、今なお十万人近くが避難生活を強いられている。人々が直面した過酷な現実を振り返り、あらためて原発事故がもたらす影響の大きさを考える。
 
 福島県浪江町の舶来(はくらい)重夫さん(72)は大震災の翌日、福島第一原発の十キロ圏外への避難を呼び掛けるパトカーの巡回で、原発の危機を知った。
 車も運転免許もない。妻の幸子さん(70)とリュックに必要最小限のものを詰め、四キロ離れた南相馬市小高区に住む姉夫婦宅へ自転車で向かった。「そこならぎりぎり十キロ圏外。とにかく離れなければ」。急ぐ途中、ボーンという爆発音がし、福島第一のある方角に白煙が立ち上るのが見えた。
 
 姉夫婦宅には、同じく浪江町から軽トラックで駆けつけた兄夫婦と、兄の娘夫婦が合流し総勢八人に。八十七歳の義兄を筆頭に八十代が四人、一番若い兄の娘でも六十歳。足が不自由だったり、持病の薬がいくつも必要だったりの「老老避難」が始まった。
 トラックの座席に三人、残る五人は荷台に乗り、地震でぼこぼこになった道を八キロ、南相馬市内の避難施設に向かった。ここで二晩、雑魚寝したが、市の職員から「コンクリートの施設でないと放射線を防げない」と告げられ、四キロ北の小学校へ。
 ここも避難者であふれていた。市職員から「可能な人はどんどん車で避難して」と言われたが、一行は「この寒さの中、年寄りが荷台に乗って山越えは無理」と動くに動けなかった。
 
 その夜、避難者を受け入れるという群馬県東吾妻町からのバスが着き、皆で乗った。すし詰め状態で、悪路は振動も激しい。雪が降り出したがエアコンは故障し、寒さに震えた。体調を悪くした同乗者もおり、舶来さんは「何とか無事に着いて」と祈った。「一人でも力尽きたら、皆が共倒れになる。誰も死なせちゃいけない。いつもそれだけを考えていました」
 
 東吾妻町の保養所で二カ月間を過ごし、「少しでも地元近くに」と福島県猪苗代町のホテルの避難所に移った。夏になって避難所が閉鎖されることになり、舶来さん夫婦は白河市の借り上げアパートに、姉夫婦ら六人もそれぞれ仮設住宅などへ移った。
 浪江町への帰還が見通せない中、舶来さん夫婦は二〇一四年末、栃木県大田原市に新居を建て、やっと落ち着いた。事故から三年半がたっていた。舶来さんは今、苦しい老老避難を振り返り、こう語る。
 
 「あの厳しい状況で誰も倒れずに済んだのは、ただの偶然でしかない。あんなことを繰り返さないためにも、事故の教訓を絶対に忘れちゃいけない」 (小倉貞俊)
 
写真